Respect for Koichi Fujita

ビートルズに衝撃を受けギターを弾くようになり、バンド"アウトキャ スト"のメンバーとして活躍。作詞や作曲も手がけるようになる。 1970年代は、ブリティッシュロックやモータウンサウンドに傾倒。 そして"杉山清貴&オメガトライブ"、菊池桃子を擁するトライアング ル・プロダクションのオーナー、プロデューサーとして、1980年代の 音楽界をリードする。 "オメガトライブ"を語る上で、最も重要な人物であり、当時の音楽業界 において、最も先進的な感覚を持ったプロデューサーの一人だった。 元々ミュージシャンであり、しかも音楽業界の全てを知り尽くしたうえ での舵取りは、エンタティナーとクリエイターのバランスを常に考えた ものであり、これこそ洋楽指向の楽曲がJ-POPシーンで成功するための 鍵であった。 曲作りからマーケット戦略まで、全ての最終決定権を持っていた彼の 存在なくして"オメガトライブ"の活躍は有り得なかったといえる。   ______________ 1947年3月20日 千葉市登戸町で生まれる。         その当時登戸町は埋め立て前で、海岸沿いの町であった。 サッカーが大好きなスポーツ少年。 ただ、母の死、父の再婚などで、寂しい少年時代を過ごす。 千葉県立千葉高校在学中、ビートルズに衝撃を受け、エレキギターを購入。 ここから音楽にのめり込んでゆく。 1967年 渡辺プロダクションのスカウトによりアウトキャストのメンバー     (Vo.G)として「友達になろう」でデビュー。

    当時、アーティスト本人の作詞作曲でデビューするのは、     極めて稀なケース。     音楽性の違いにより、同年夏脱退 1969年 自らの主導で The Love結成     「イカルスの星」「ワンスアゲイン」でデビュー。          サクラカラーのCMにでたり、テレビ番組のレギュラーになったり     美少年バンドのはしりとして評判になる。 The Love解散後、音楽制作、プロモーター、マネージメントなど プロデューサーへの下地作りの活動をする。 かまやつひろしの、マネージメント&プロモーションを手掛ける。 ベイシティローラーズのコンサートフィルムをイギリスで購入。 日本全国の映画館で上映。行列で入れないほどの騒ぎとなり、 ベイシティローラーズ旋風を巻き起こす。 1975年4月24日  トライアングルプロダクション設立 1977年 レイジーを大阪で発掘。本格的にプロデューサー業へ。      同年「Hey I Love You」でデビュー。      3作目「赤頭巾ちゃんご用心」でブレイク。 1979年 当時19歳だった、角松敏生のデモテープを聞きスカウト。     1981年「Yokohama Twilight Time」でデビュー。          セカンドアルバム「Weekend Fly To The Sun」は     ロサンゼルス録音。     EW&F,Jackson5のアレンジで活躍していたTomTom48     と制作を共に行う。 1981年6月1日  バミューダ音楽出版設立     この後永きにわたり、     杉山清貴&オメガトライブ、菊池桃子、1986オメガトライブ、     カルロストシキ&オメガトライブ、ブランニューオメガトライブ、     ジャッキー・リン&パラビオン、RA MU、TwinFizz、Kazzなど     数々のアーティストを発掘、作品をプロデュースする。



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